鳳凰山

 今から216年前寛政十年(一七九八)の秋、喜助という大工が
棟梁として作り、文政四年(一八二一)四月大垣の楠屋十太夫塗師により
塗箔せられたものである。
 美しく翼を広げた鳳凰は湖東常喜村の富田新左衛門尉源義綱の作で、
精巧優美で目出度く鳳凰の舞う姿は当やまのシンボルである。
 後座の華頭窓の両側の登り龍、下り龍の彫刻は吉政の作で見送りを
不用とする。
 舞台及び二重、三重の部分の彫刻は高田の彫師で有名な藤原重興と
弟子の左竹民弥の作が多い。
 亭には火えんの曲玉を戴き祭屋台の常識を打破した重文の逸品である。
 前屋形ほ昭和五十二年大垣の田辺塗箔店により修理塗箔をし、
襖絵の虎は佐久間頼峰画伯の筆による雄渾なるものである。


攀鱗閣

 今から206年前、文化五年(一八○八)関ヶ原山中の
藤井太兵衛という大工の作で、十九年間白木であったが
文政十年(一八二七)大垣の楠屋十太夫自光と次男久政が塗装し、
彫刻は養老の佐竹民弥義斎が六年かかって作る。
 現存する見送りの蓬栄のつゞれ織は平和を象徴し、約四百年前中国で
作られたもの。
 現在祭りに掛けられている見送りは、山鹿清華作「蘭陵王の舞」第三面を所待し、
亭に金龍に 八寸の鏡を戴く。
舞台天井に狭間の松に鶴の巣篭る彫刻等、技術の粋を集めぜいの
限りを尽した曳である。
 昭和五十四年(一九七九)全やま解体修理を施し立派になる。



紫雲閣

 紫雲閣は古文書(中町内保存)によると安永四年
すでに歌舞伎が演じられており、それ以前の歴史があるとみられる。
 明治三年九月米にして百六十六俵のお金で長浜近在の藤岡和泉によって
大改造、舞台狭間等の彫塑は江洲枝折村今の米原町枝折の山口小三郎、
幸三郎、守重の作。
 又扁額は近衛前関白左大臣藤岡忠煕公の御染筆であり紫雲閣が誇る
金屏風舞台障子は円山応挙の第一弟子の山口素絢の作、中でも見送りは
中国美術品で古代つづれ織「賢人図」で最も古く文化財として保存、
今のは昭和五十三年京都の龍村美術の手で研究を重ね胴幕、猩堅旗と共に
複製、重なる屋根の亭には草薙の剣を戴きの高さ九米十あり
日本最大の雄姿を誇り一層豪華で金色燦爛たるものなり。